SAF証書とブック&クレームの仕組み

SAF証書とブック&クレームの仕組み

「飛ばない企業」がSAFを買う時代

SAF(持続可能な航空燃料)の購入者といえば、従来は航空会社でした。ところが近年、自らは一機の飛行機も運航しない企業、たとえばメーカー、小売、IT企業、物流会社などが、SAFの買い手として続々と市場に参入しています。この一見不思議な現象を支えているのが、「ブック&クレーム(Book and Claim)」と呼ばれる仕組みです。

SAFは従来のジェット燃料より数倍高価であり、航空会社だけでコスト差を負担し続けることには限界があります。そこで、SAFがもたらすCO2削減という環境価値を証書化し、その価値を必要とする企業に販売することで、コスト負担者の裾野を社会全体へ広げる仕組みが生まれました。ブック&クレームは、SAF市場の拡大を資金面から支える重要なインフラになりつつあります。

背景には、SAFの供給が特定の空港・地域に偏っているという物理的な事情もあります。SAFを製造できるプラントは世界でもまだ限られており、すべての空港ですべての航空会社がSAFを給油できるわけではありません。物理的な給油場所と環境価値の帰属を切り離すことで、地理的な制約を超えてSAF市場への参加者を増やす──これがブック&クレームの本質的な役割です。

ブック&クレームの仕組み

ブック&クレームの基本的な考え方は、「物理的な燃料の流れ」と「環境価値の流れ」を切り離すことにあります。SAFは重量物である液体燃料であり、製造プラントから遠く離れた空港まで輸送するとコストとCO2が余計にかかります。そこで、SAFは製造地に近い空港で物理的に給油してしまい(ブック)、そのライフサイクルCO2削減量を登録簿に記録します。

一方、削減価値を必要とする企業は、登録簿に記録された削減量を証書(SAFクレジット、SAF証書)として購入し、自社の排出削減として主張(クレーム)します。購入企業の貨物や社員が実際にSAFで飛んだかどうかは問いません。この仕組みは、再生可能エネルギーにおける非化石証書やグリーン電力証書と同じ発想であり、物理的制約を超えて環境価値を流通させる手法として確立されつつあります。

具体的な取引の流れを見てみましょう。まず燃料供給者または航空会社が、認証済みSAFのライフサイクルCO2削減量を第三者登録簿に登録します。次に、削減価値を購入したい企業が証書を購入すると、登録簿上でその価値が購入者に移転され、同時に元の保有者の帳簿からは除かれます。最後に、購入企業が削減を主張した時点で証書は「償却」され、二度と流通できなくなります。この一連の管理が、環境価値の信頼性を支える生命線です。

信頼性の担保には第三者による登録・追跡システムが不可欠であり、国際的にはRSB(持続可能なバイオマテリアル円卓会議)やISCCといった認証機関の登録簿、IATA主導のレジストリなどが整備されています。

需要の源泉はScope3削減

企業がSAF証書を購入する最大の動機は、Scope3排出量の削減です。Scope3とは、自社の直接排出(Scope1)や購入電力由来の排出(Scope2)ではなく、サプライチェーン全体で生じる間接排出を指します。出張による移動や製品の航空輸送は、多くのグローバル企業にとって無視できないScope3排出源です。

SBT(科学的根拠に基づく目標)へのコミットやCDP開示の広がりにより、企業は航空輸送由来の排出にも削減手段を求めるようになりました。しかし、航空輸送を使わないという選択は現実的ではありません。SAF証書は、航空輸送を維持しながら排出削減を進められる、事実上唯一の手段として需要を集めているのです。国際的な排出量算定基準の側でも、ブック&クレームによるSAF調達をScope3削減として計上するためのガイダンス整備が進んでいます。

企業側から見れば、SAF証書の購入は単なるコストではなく、脱炭素経営の実績として投資家や顧客に示せる資産でもあります。特に欧州の顧客を持つ製造業や、ESG評価を重視するグローバル企業にとって、航空輸送由来の排出に打ち手があるかどうかは、サプライヤー選定の評価項目になり始めています。カーボンオフセット(他部門の削減クレジット購入)と異なり、SAF証書は自社が利用する航空輸送そのものの脱炭素に資金を投じる「バリューチェーン内削減(インセッティング)」である点も、企業に選ばれる理由となっています。

物流大手・日本企業の動向

この分野で先行するのは国際物流大手です。DHLは大量のSAFを確保し、荷主が追加料金を払うことで輸送分の排出削減を主張できる「グリーン輸送サービス」を展開しています。キューネ・アンド・ナーゲルなどの大手フォワーダーも同様のプログラムを持ち、SAF証書は航空貨物営業の差別化ツールとなりました。

荷主側の反応も具体的です。医薬品や半導体関連など航空輸送への依存度が高い業種では、輸送起因の排出削減を調達方針に明記する企業が増え、フォワーダー選定の入札でSAFプログラムの有無が問われる事例も出てきました。輸送サービスの価格競争に「炭素」という新しい評価軸が加わったことで、物流業界のSAF証書調達は一過性の環境PRではなく、営業戦略そのものへと位置づけを変えています。

日本でも動きが広がっています。ANAは法人向けの「SAF Flight Initiative」を通じて、企業が輸送・出張由来の排出削減に参加できるプログラムを展開し、JALも同様の法人プログラムや搭乗者参加型の取り組みを進めています。商社や燃料供給者による証書販売の仕組みづくりも始まっており、荷主企業・フォワーダー・航空会社・製造事業者をつなぐ環境価値のバリューチェーンが形成されつつあります。

価格面では、SAF証書のコストは従来燃料との価格差(プレミアム)に相当する部分が中心となるため、企業は燃料そのものを買うよりも小さな負担で削減価値を確保できます。必要な削減量だけを小口で購入できる柔軟性も、事業会社にとっての参入障壁を大きく下げました。今後は、証書価格の指標整備や取引プラットフォームの拡充により、市場の流動性がさらに高まると見込まれています。

二重計上防止と今後の課題

ブック&クレームの最大の課題は、二重計上(ダブルカウント)の防止です。同じ削減価値を航空会社と荷主企業の両方が主張したり、CORSIAの遵守と企業の自主的な削減主張に重複して使ったりすれば、制度全体の信頼が損なわれます。このため、証書の発行・移転・償却を一元管理する登録簿の整備と、各制度間での計上ルールの調整が急ピッチで進められています。

また、証書価格の透明性、削減量算定の統一、そして「安い証書を買うだけで実際の燃料転換が進まないのではないか」という批判への対応も論点です。それでも、SAFの価格差を社会全体で分担する仕組みとして、ブック&クレームに代わる現実的な選択肢は当面見当たりません。制度の信頼性を高めながら市場を拡大できるか──SAF産業の成長速度を左右する、静かで重要な主戦場といえるでしょう。

日本企業にとってのポイントは、制度が固まりきる前のこの時期から小規模でも実践を始め、算定・開示・調達のノウハウを社内に蓄積しておくことです。SAF証書の調達はまだ新しい実務であり、先行企業の事例そのものが業界標準を形づくっていきます。航空脱炭素の資金循環に早期に参加することは、将来の規制対応の先取りであると同時に、取引先からの信頼獲得にも直結するはずです。